inu-daisukiのブログ

 犬好きです。いろんなことに挑戦しています。英語、中国語、フランス語、韓国語、カラオケ、健康体操、野鳥観察、文学、哲学書・宗教書を読む、認知症サポーター、地域コミュニティーの在り方、図書館の在り方、老人会(寿会)の在り方探索、国際交流、短歌、俳句、川柳、各紙への投稿等々……。しかし、どれも中途半端なので、最近は、とりあえず英語が流暢に話せるようになるため、多くの時間をかけています。

My body is similar to a human being, but it is the same as an animal

 人間と動物の差はどこにあるのだろうか。サルトルはその著『存在と無』において「何も私自身に対して私を保証することは出来ない。私は、私がそれであるところのこの無によって世界から、また私の本質から切断されて、世界の意味と私の本質の意味を実現しなければならない。私はただ一人で、正当化し得ず、言い訳も出来ず、それを決定する」
 サルトルによると、無が意識を支えている、という。考えることにより距離を取ることができる、というのだ。存在の他に無が存在するという考えである。ある面ではサルトルの指摘は当たっている。動物と違い人間は、考えることができる故に、思想を持ち、信念を持ち、宗教を持つことができるからである。
 しかし、動物と人間の決定的な差異はそれだけだろうか。日蓮は「身は人身に似て畜身なり」と言い放った。サルトルのように、意識で動物と人間を差別しない。人間はある面で動物だ。まずそのことを自覚し、動物を下等と見てはいけない、という考えだ。それでは動物と人間の本質的相違は何だろうか。日蓮は「賢きを人と云いはかなきを畜といふ」と言う。「賢い」かどうかを問題にした。日蓮の言う「賢い」とは単なる頭が良いという意味ではない。人を傷つけず、大切にし、尊重していく精神である。その視点で考えると、自分の生んだ子供をコインロッカーに捨て去る人間に比較し、懸命に子育てをしている小鳥たちの行動に頭が下がる。サルトルより一歩深い思索が日蓮にはある。