inu-daisukiのブログ

 犬好きです。いろんなことに挑戦しています。英語、中国語、フランス語、韓国語、カラオケ、健康体操、野鳥観察、文学、哲学書・宗教書を読む、認知症サポーター、地域コミュニティーの在り方、図書館の在り方、老人会(寿会)の在り方探索、国際交流、短歌、俳句、川柳、各紙への投稿等々……。しかし、どれも中途半端なので、最近は、とりあえず英語が流暢に話せるようになるため、多くの時間をかけています。

Heikemonogatari 4 Tosabo be cut

Tosabo be cut土佐房被斬
 さる程に、九郎判官には、鎌倉殿より大名十人つけられたりけれども、内々御不審を蒙りたまふよえい聞えしかば、心をあはせて一人づつ皆下りはてにけり。……土佐房正俊を召して、「和僧のぼって、物詣するやうにて、たばかって討て」との給ひければ、正俊畏ってうけ給り、宿所にも帰らず、御前をたって、やがて京へぞ上りける。……「さらばきれ」とて、六条河原にひきだいてきってンげり。ほめぬ人こそなかりけれ。(p302~310)
 土佐坊昌俊(とさのぼう しょうしゅん)は、平安時代末期の僧・武将。
 大和国興福寺金剛堂の堂衆で、年貢の問題で大和国針の庄の代官を夜討ちにした為、大番役として上洛していた土肥実平に預けられる。実平に伴われて関東に下向したのち源頼朝に臣従し、御家人として治承・寿永の乱に参加する。
 文治元年(1185年)10月9日、頼朝と弟の源義経が対立すると、頼朝は京にいる義経を誅するべく御家人達を召集するが、名乗り出る者がいない中、昌俊が進んで引き受けて頼朝を喜ばせた。昌俊は出発前、頼朝に下野国にいる老母と乳児の行く末を託し、頼朝は下野国の中泉荘を与えている。
 昌俊は弟の三上弥六家季ら83騎の軍勢で鎌倉を出発し、17日に京の義経の館である六条室町亭を襲撃する(堀川夜討)。義経の家人達は出払っていて手薄であったが、義経は佐藤忠信らを伴い、自ら討って出て応戦した。のちに源行家の軍勢も義経に加わり、敗れた昌俊は鞍馬山に逃げ込んだが、義経の郎党に捕らえられ、26日、家人と共に六条河原で梟首された(『吾妻鏡』)。義経は襲撃翌日の18日に後白河法皇から頼朝追討の宣旨を受け取ると直ちに挙兵の準備を開始した。
 義経は土佐房のうそを見抜き、六条河原で切り捨ててしまった。