Heikemonogatari 4 Konkakinosata
Konkakinosata紺掻之沙汰
同八月廿二日、鎌倉の源二位頼朝卿の父、故左馬頭義朝のうるはしきかうべとて、高雄の文覚上人頚にかけ、鎌田兵衛が頸をば、弟子が頸にかけさせて、鎌倉へぞ下られける。……かの紺かきの男ともにあひ具して下りけるとかや。……頼朝卿、武勇の名誉長ぜるによって、身をたて、家をおこすのみならず、亡父聖霊贈官贈位に及けるこそ目出けれ。(p294~296)
文覚(もんがく)は、平安末期・鎌倉初期の真言宗の僧。俗名は遠藤盛遠。もと北面の武士で、誤って袈裟御前(けさごぜん)を殺して出家。神護寺再興を強訴したため伊豆に流されたが、そこで源頼朝の挙兵を助け、頼朝開府後に神護寺を復興した。のち佐渡や対馬(つしま)に流され、九州で没したという。生没年未詳。
長い間、義朝の頚が獄門にかけられていた。検非違使の別当に許可をもらい、獄門から下し、円覚寺に納めてあったという。それを聞き出した文覚が紺かきの男と一緒に鎌倉へ下った。頼朝は亡父のこうべを受け取った。その感激の様子が描かれている。
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