inu-daisukiのブログ

 犬好きです。いろんなことに挑戦しています。英語、中国語、フランス語、韓国語、カラオケ、健康体操、野鳥観察、文学、哲学書・宗教書を読む、認知症サポーター、地域コミュニティーの在り方、図書館の在り方、老人会(寿会)の在り方探索、国際交流、短歌、俳句、川柳、各紙への投稿等々……。しかし、どれも中途半端なので、最近は、とりあえず英語が流暢に話せるようになるため、多くの時間をかけています。

Heikemonogatari 4 Minister is cut

大臣殿被斬Minister is cut
 さる程に、鎌倉殿、大臣殿に対面あり。……故入道殿の御ゆるされ候はずは、頼朝いかでかたすかりべき……さる程に、九郎大夫判官、やうやうに陳じ申されけれども、景時が讒言によって、鎌倉殿、さらに分明に御返事もなし。……大臣殿父子を具したてまって、都へぞかへりのぼられける。……頚をば判官持たせて都へ入る。むくろをば公長が沙汰として、おや子ひとつ穴にぞうづみける。さしも罪ふかく、はなれがたくの給ひければ、かやうにしてんげり。(p262~272)
 宗盛最期
 4月26日、宗盛は他の捕虜とともに帰京する。浄衣を着た宗盛は、簾を上げた車に清宗と同車して、大路を渡された。車は武士(土肥実平・伊勢義盛)が厳しく警護し、見物人が群れを成して見送った。
 5月7日、宗盛・清宗は義経に連行されて鎌倉に向かう。九条兼実は「配流の儀にあらず」と記しており、死罪は決定していたと思われる。宗盛は輿に、清宗は騎馬に乗り、5月16日、鎌倉に入った。6月7日、宗盛は敗軍の将として頼朝の前に引き出される。頼朝は勝者として簾の中から宗盛を眺め、比企能員に自らの言葉を伝えさせた。『吾妻鏡』『平家物語』によれば、宗盛は卑屈な態度に終始して助命を乞い、集まった者から非難・嘲笑されたという。
 6月9日、宗盛は京都に送還され、21日に義経の命を受けた橘公長の手により、近江国篠原宿で斬首された。享年39。嫡男・清宗、次男・能宗(幼名・副将)、その他男児二人(名前は不明)も順次処刑され、宗盛の血統は途絶えた。


 宗盛はひょっとしたら命だけは助かるかもしれない、とかすかな願いを持っていたが、それもむなしく宗盛親子は別々に斬られた。