inu-daisukiのブログ

 犬好きです。いろんなことに挑戦しています。英語、中国語、フランス語、韓国語、カラオケ、健康体操、野鳥観察、文学、哲学書・宗教書を読む、認知症サポーター、地域コミュニティーの在り方、図書館の在り方、老人会(寿会)の在り方探索、国際交流、短歌、俳句、川柳、各紙への投稿等々……。しかし、どれも中途半端なので、最近は、とりあえず英語が流暢に話せるようになるため、多くの時間をかけています。

Sinheikemonogatari 1 Cyogonmiya

Cyogonmiya長恨宮
 人はすぐ、人の外貌で、人をきめてしまいやすい。忠盛の容貌と、忠盛が地方出の武者だということだけで、院中の公卿たちは、かれの知性を見くびっているが、上皇はむしろ反対に見ておられた。……しかし今は――と、御思案のすえか。これが表面化してから、二月ほど後にこと、お座の間の近くへ、忠盛を召された。そして、「そちも、宿の妻には、不運な男よの。……なお、独り暮しでは、やしきに在っても、あじきないことであろ。さいわい、一ノ宮へ上がっていつ乳人の有子は、そちへ嫁ぎたがっておるという。……」……忠盛は、お心の深さに打たれ、どうお答えしたかも知らずに、退がってしまった。……忠盛は、まもなく、後妻をむかえた。……有子は、まえの祇園女御とは、まったく性格のちがった母性型の人であり、忠盛にとって、大きな幸福を加えた良妻であった。……晩年、池ノ禅尼といわれ、薄明の一少年源頼朝が六波羅に捕われたとき、そのいじらしさを見、清盛を説いて、生年頼朝のために命ごいをした尼は――若き日、人もあろうにと人のいう、スガ目の忠盛と恋をした、この有子なのであった。
 平治元年(1159年)の平治の乱においては複雑な政争を勝ち抜いた清盛が勝利し、その結果、源義朝ら他の軍事貴族が駆逐された。翌永暦元年(1160年)2月、義朝の嫡男で13歳の頼朝が池禅尼ならびに頼盛の郎党である平宗清に捕えられた。この際、池禅尼は清盛に対して助命を嘆願したと言われている。また頼朝の助命の為に池禅尼が断食をし始めたため、清盛も遂に折れて伊豆国への流罪へ減刑したとも言われている。
 どうして池禅尼は頼朝の助命のため断食までしたのだろうか。その時、頼朝が死んでいたら歴史はどうなっていたのだろうか。