Heikemonogatari 4 Kosigoe
Kosigoe腰越
さる程に、大臣殿は、九郎大夫の判官に具せられて、七日のあかつき粟田口を過ぎ給へば、大内山、雲井のよそにへだたりぬ。関の清水を見給ひて、なくなくかぞ詠じ給ひける。……(あやまりなきよしをいうぜられ、放免にあづからば、積善の余慶家門に及び、栄花をながく子孫につたへん。仍て年来の愁眉を開き、一期の安寧をえん。書紙に尽きさず、併令省略候畢。義経恐慌謹言。元暦二年六月五日 源義経 進上 因幡守殿へ とぞかかれたる。(p252~262)
元暦2年5月24日(1185年6月23日)、源義経が兄頼朝に怒りを買い、鎌倉入りを止められて腰越に留まっていた時、満福寺で心情を綴ったと伝えられる手紙である。
様式や文言など、当時の普通の披露文などとは異なっていて、義経が書いた原文ではないとされる。しかし功を誇り頼朝の仕打ちを嘆き、肉親の情に訴える様は史料である『玉葉』などに残された義経の発言と一致するものがあり、当時の切々たる義経の心情をよく表したものと言える。
一方、近年の研究では腰越状を掲載している『吾妻鏡』の記述に多くの疑問が指摘され、義経が本当に腰越で留め置かれたのかという事実関係を含め、腰越状の真偽も問われている。腰越状の文面については、頼朝の怒りの原因とされる任官問題や自専にまったく触れておらず、義経の五位衛門尉任官は、受領より格下の地位に過ぎず、「当家の面目、希代の重職」などではありえないなど、偽作説、義経が書いた原文があったとしても、相当の虚飾が加えられているとの見方がされている。また頼朝の親族への冷酷さを強調する『吾妻鏡』幕府編纂者による捏造の可能性[2]も指摘されており、腰越状の史料的評価は分かれている。
この手紙は公文所別当大江広元宛てに書かれ、頼朝へ取り次いでもらったものの、結局義経は鎌倉入りを許されず京都へ引き返すこととなった。
尚、腰越状は明治時代初期まで、手習いの教科書として用いられた。
義経は結局、頼朝との会見の機会も与えられず、二人の仲は決裂していく。
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