inu-daisukiのブログ

 犬好きです。いろんなことに挑戦しています。英語、中国語、フランス語、韓国語、カラオケ、健康体操、野鳥観察、文学、哲学書・宗教書を読む、認知症サポーター、地域コミュニティーの在り方、図書館の在り方、老人会(寿会)の在り方探索、国際交流、短歌、俳句、川柳、各紙への投稿等々……。しかし、どれも中途半端なので、最近は、とりあえず英語が流暢に話せるようになるため、多くの時間をかけています。

Heikemonogatari 3 Otiasi

inu-daisuki

Otiasi落足
 小松殿の末子、備中守師盛は、主従七人小船に乗って落ち給ふところに、新中納言の侍清衛門公長といふもの馳せ来って、「あれは備中守殿の御舟とこそ見まゐらせ候へ。……」……大の男の鎧着ながら馬より舟へかは飛乗らうに、なじかはよかるべき。……源氏のかたにきりかけらるゝ頚ども二千余人也。…………いくさやぶれければ、主上をはじめたてまって、人々みな御舟にめし出給ふ、心のうちこそ悲しけれ。……一の谷も攻め落されて、人々みな心ばそうぞなられける。(p344~348)
 小松殿の末子である備中守師盛は、主従七人で小舟に乗って、逃げようとしていました。その時、新中納言知盛卿の侍で、清衛門公長という者が馬を飛ばして駆けて来て、「その舟はもしや、備中守殿のお舟とお見受けするが、乗せてはもらえませんか」と、申し上げると、助けようと舟を渚に寄せてきました。大の男が鎧を着たまま、馬から舟に飛び乗ったので、大変なことになりました。小さな舟なので、くるりと一回転してしまったのです。
 備中守は海に投げ出され、浮きつ沈みつしているところを、畠山庄司次郎重忠の家来である、本田次郎親経の主従十四、五騎が馬を飛ばして駆けつけ、急いで馬から飛び降りると、備中守を熊手に引っ掛けて引き上げ、御首を刎ねました。この時、備中守は十四歳だったと言われています。
 教盛の長男、越前三位通盛卿は一の谷の山手の大将軍でしたが、その軍勢は皆、逃げたり討たれたりし、また大勢の敵に妨げられ、弟の能登守とも別れ別れになってしまいました。もはやこれまでと、心静かに自害をしようと、東に向かって逃げていましたが、近江国の住人、佐々木木村三郎成綱、武蔵国の住人、玉井四郎資景らその他合わせて七騎に取りこめられ、ついに討たれたのでした。その時までは侍一人が付き添っていたのですが、その者も最期の時には、助けようともしませんでした。
 一の谷から生田の森にかけて東西の木戸口は、時が経つにしたがって、源平お互い数知れず討たれたのでした。矢倉の前や逆茂木の下には、人馬の死体などが山のごとくになっていました。一の谷にある一面の笹原の緑色も、薄紅になってしまったほどです。一の谷、生田の森、山の崖や、そのほか海の波打ち際で、矢で射られたり、斬られたりして亡くなった人の数は、とても分からない位であり、また二千余人が源氏側で晒し首になりました。
 この一の谷の戦いで討たれた平家の主だった武将は、次のような方々です。まず最初に、越前三位通盛、その弟蔵人大夫業盛、薩摩守忠度、武蔵守知章、備中守師盛、尾張守清定、尾張守清定、淡路守清房、修理大夫経盛の嫡子皇后宮亮経正、その弟若狭守経俊、同じく大夫敦盛、以上十人と伝えられています。




 こうして舟は沈み、備中守は海の中を漂っているうち、敵に頚をかかれてしまった。青年十四歳。余りにも若く、無慙である。