inu-daisukiのブログ

 犬好きです。いろんなことに挑戦しています。英語、中国語、フランス語、韓国語、カラオケ、健康体操、野鳥観察、文学、哲学書・宗教書を読む、認知症サポーター、地域コミュニティーの在り方、図書館の在り方、老人会(寿会)の在り方探索、国際交流、短歌、俳句、川柳、各紙への投稿等々……。しかし、どれも中途半端なので、最近は、とりあえず英語が流暢に話せるようになるため、多くの時間をかけています。

夏目漱石 こころ⑪

inu-daisuki

十一


 こうした落ち付きのない間にも、私わたくしはまだ静かに坐すわる余裕をもっていた。偶たまには書物を開けて十頁ページもつづけざまに読む時間さえ出て来た。一旦いったん堅く括くくられた私の行李こうりは、いつの間にか解かれてしまった。私は要いるに任せて、その中から色々なものを取り出した。私は東京を立つ時、心のうちで極きめた、この夏中の日課を顧みた。私のやった事はこの日課の三さんが一いちにも足らなかった。私は今までもこういう不愉快を何度となく重ねて来た。しかしこの夏ほど思った通り仕事の運ばない例ためしも少なかった。これが人の世の常だろうと思いながらも私は厭いやな気持に抑おさえ付けられた。
 私はこの不快の裏うちに坐りながら、一方に父の病気を考えた。父の死んだ後あとの事を想像した。そうしてそれと同時に、先生の事を一方に思い浮べた。私はこの不快な心持の両端に地位、教育、性格の全然異なった二人の面影を眺ながめた。
 私が父の枕元まくらもとを離れて、独り取り乱した書物の中に腕組みをしているところへ母が顔を出した。
「少し午眠ひるねでもおしよ。お前もさぞ草臥くたびれるだろう」
 母は私の気分を了解していなかった。私も母からそれを予期するほどの子供でもなかった。私は単簡たんかんに礼を述べた。母はまだ室へやの入口に立っていた。
「お父さんは?」と私が聞いた。
「今よく寝てお出いでだよ」と母が答えた。
 母は突然はいって来て私の傍そばに坐すわった。
「先生からまだ何ともいって来ないかい」と聞いた。
 母はその時の私の言葉を信じていた。その時の私は先生からきっと返事があると母に保証した。しかし父や母の希望するような返事が来るとは、その時の私もまるで期待しなかった。私は心得があって母を欺あざむいたと同じ結果に陥った。
「もう一遍いっぺん手紙を出してご覧な」と母がいった。
 役に立たない手紙を何通書こうと、それが母の慰安になるなら、手数を厭いとうような私ではなかった。けれどもこういう用件で先生にせまるのは私の苦痛であった。私は父に叱しかられたり、母の機嫌を損じたりするよりも、先生から見下げられるのを遥はるかに恐れていた。あの依頼に対して今まで返事の貰もらえないのも、あるいはそうした訳からじゃないかしらという邪推もあった。
「手紙を書くのは訳はないですが、こういう事は郵便じゃとても埒らちは明きませんよ。どうしても自分で東京へ出て、じかに頼んで廻まわらなくっちゃ」
「だってお父さんがあの様子じゃ、お前、いつ東京へ出られるか分らないじゃないか」
「だから出やしません。癒なおるとも癒らないとも片付かないうちは、ちゃんとこうしているつもりです」
「そりゃ解わかり切った話だね。今にもむずかしいという大病人を放ほうちらかしておいて、誰が勝手に東京へなんか行けるものかね」
 私は始め心のなかで、何も知らない母を憐あわれんだ。しかし母がなぜこんな問題をこのざわざわした際に持ち出したのか理解できなかった。私が父の病気をよそに、静かに坐ったり書見したりする余裕のあるごとくに、母も眼の前の病人を忘れて、外ほかの事を考えるだけ、胸に空地すきまがあるのかしらと疑うたぐった。その時「実はね」と母がいい出した。
「実はお父さんの生きてお出いでのうちに、お前の口が極きまったらさぞ安心なさるだろうと思うんだがね。この様子じゃ、とても間に合わないかも知れないけれども、それにしても、まだああやって口も慥たしかなら気も慥かなんだから、ああしてお出のうちに喜ばして上げるように親孝行をおしな」
 憐れな私は親孝行のできない境遇にいた。私はついに一行の手紙も先生に出さなかった。


十二


 兄が帰って来た時、父は寝ながら新聞を読んでいた。父は平生へいぜいから何を措おいても新聞だけには眼を通す習慣であったが、床とこについてからは、退屈のため猶更なおさらそれを読みたがった。母も私わたくしも強しいては反対せずに、なるべく病人の思い通りにさせておいた。
「そういう元気なら結構なものだ。よっぽど悪いかと思って来たら、大変好いいようじゃありませんか」
 兄はこんな事をいいながら父と話をした。その賑にぎやか過ぎる調子が私にはかえって不調和に聞こえた。それでも父の前を外はずして私と差し向いになった時は、むしろ沈んでいた。
「新聞なんか読ましちゃいけなかないか」
「私わたしもそう思うんだけれども、読まないと承知しないんだから、仕様がない」
 兄は私の弁解を黙って聞いていた。やがて、「よく解わかるのかな」といった。兄は父の理解力が病気のために、平生よりはよっぽど鈍にぶっているように観察したらしい。
「そりゃ慥たしかです。私わたしはさっき二十分ばかり枕元まくらもとに坐すわって色々話してみたが、調子の狂ったところは少しもないです。あの様子じゃことによるとまだなかなか持つかも知れませんよ」
 兄と前後して着いた妹いもとの夫の意見は、我々よりもよほど楽観的であった。父は彼に向かって妹の事をあれこれと尋ねていた。「身体からだが身体だからむやみに汽車になんぞ乗って揺ゆれない方が好い。無理をして見舞に来られたりすると、かえってこっちが心配だから」といっていた。「なに今に治ったら赤ん坊の顔でも見に、久しぶりにこっちから出掛けるから差支さしつかえない」ともいっていた。
 乃木大将のぎだいしょうの死んだ時も、父は一番さきに新聞でそれを知った。
「大変だ大変だ」といった。
 何事も知らない私たちはこの突然な言葉に驚かされた。
「あの時はいよいよ頭が変になったのかと思って、ひやりとした」と後で兄が私にいった。「私わたしも実は驚きました」と妹の夫も同感らしい言葉つきであった。
 その頃ころの新聞は実際田舎いなかものには日ごとに待ち受けられるような記事ばかりあった。私は父の枕元に坐って鄭寧ていねいにそれを読んだ。読む時間のない時は、そっと自分の室へやへ持って来て、残らず眼を通した。私の眼は長い間、軍服を着た乃木大将と、それから官女かんじょみたような服装なりをしたその夫人の姿を忘れる事ができなかった。
 悲痛な風が田舎の隅まで吹いて来て、眠たそうな樹きや草を震わせている最中さいちゅうに、突然私は一通の電報を先生から受け取った。洋服を着た人を見ると犬が吠ほえるような所では、一通の電報すら大事件であった。それを受け取った母は、はたして驚いたような様子をして、わざわざ私を人のいない所へ呼び出した。
「何だい」といって、私の封を開くのを傍そばに立って待っていた。
 電報にはちょっと会いたいが来られるかという意味が簡単に書いてあった。私は首を傾けた。
「きっとお頼たのもうしておいた口の事だよ」と母が推断してくれた。
 私もあるいはそうかも知れないと思った。しかしそれにしては少し変だとも考えた。とにかく兄や妹いもとの夫まで呼び寄せた私が、父の病気を打遣うちやって、東京へ行く訳には行かなかった。私は母と相談して、行かれないという返電を打つ事にした。できるだけ簡略な言葉で父の病気の危篤きとくに陥りつつある旨むねも付け加えたが、それでも気が済まなかったから、委細いさい手紙として、細かい事情をその日のうちに認したためて郵便で出した。頼んだ位地の事とばかり信じ切った母は、「本当に間まの悪い時は仕方のないものだね」といって残念そうな顔をした。


十三


 私わたくしの書いた手紙はかなり長いものであった。母も私も今度こそ先生から何とかいって来るだろうと考えていた。すると手紙を出して二日目にまた電報が私宛あてで届いた。それには来ないでもよろしいという文句だけしかなかった。私はそれを母に見せた。
「大方おおかた手紙で何とかいってきて下さるつもりだろうよ」
 母はどこまでも先生が私のために衣食の口を周旋してくれるものとばかり解釈しているらしかった。私もあるいはそうかとも考えたが、先生の平生から推おしてみると、どうも変に思われた。「先生が口を探してくれる」。これはあり得うべからざる事のように私には見えた。
「とにかく私の手紙はまだ向うへ着いていないはずだから、この電報はその前に出したものに違いないですね」
 私は母に向かってこんな分り切った事をいった。母はまたもっともらしく思案しながら「そうだね」と答えた。私の手紙を読まない前に、先生がこの電報を打ったという事が、先生を解釈する上において、何の役にも立たないのは知れているのに。
 その日はちょうど主治医が町から院長を連れて来るはずになっていたので、母と私はそれぎりこの事件について話をする機会がなかった。二人の医者は立ち合いの上、病人に浣腸かんちょうなどをして帰って行った。
 父は医者から安臥あんがを命ぜられて以来、両便とも寝たまま他ひとの手で始末してもらっていた。潔癖な父は、最初の間こそ甚はなはだしくそれを忌いみ嫌ったが、身体からだが利きかないので、やむを得ずいやいや床とこの上で用を足した。それが病気の加減で頭がだんだん鈍くなるのか何だか、日を経ふるに従って、無精な排泄はいせつを意としないようになった。たまには蒲団ふとんや敷布を汚して、傍はたのものが眉まゆを寄せるのに、当人はかえって平気でいたりした。もっとも尿の量は病気の性質として、極めて少なくなった。医者はそれを苦にした。食欲も次第に衰えた。たまに何か欲しがっても、舌が欲しがるだけで、咽喉のどから下へはごく僅わずかしか通らなかった。好きな新聞も手に取る気力がなくなった。枕まくらの傍そばにある老眼鏡ろうがんきょうは、いつまでも黒い鞘さやに納められたままであった。子供の時分から仲の好かった作さくさんという今では一里りばかり隔たった所に住んでいる人が見舞に来た時、父は「ああ作さんか」といって、どんよりした眼を作さんの方に向けた。
「作さんよく来てくれた。作さんは丈夫で羨うらやましいね。己おれはもう駄目だめだ」
「そんな事はないよ。お前なんか子供は二人とも大学を卒業するし、少しぐらい病気になったって、申し分はないんだ。おれをご覧よ。かかあには死なれるしさ、子供はなしさ。ただこうして生きているだけの事だよ。達者だって何の楽しみもないじゃないか」
 浣腸かんちょうをしたのは作さんが来てから二、三日あとの事であった。父は医者のお蔭かげで大変楽になったといって喜んだ。少し自分の寿命に対する度胸ができたという風ふうに機嫌が直った。傍そばにいる母は、それに釣り込まれたのか、病人に気力を付けるためか、先生から電報のきた事を、あたかも私の位置が父の希望する通り東京にあったように話した。傍そばにいる私はむずがゆい心持がしたが、母の言葉を遮さえぎる訳にもゆかないので、黙って聞いていた。病人は嬉うれしそうな顔をした。
「そりゃ結構です」と妹いもとの夫もいった。
「何の口だかまだ分らないのか」と兄が聞いた。
 私は今更それを否定する勇気を失った。自分にも何とも訳の分らない曖昧あいまいな返事をして、わざと席を立った。


十四


 父の病気は最後の一撃を待つ間際まぎわまで進んで来て、そこでしばらく躊躇ちゅうちょするようにみえた。家のものは運命の宣告が、今日下くだるか、今日下るかと思って、毎夜床とこにはいった。
 父は傍はたのものを辛つらくするほどの苦痛をどこにも感じていなかった。その点になると看病はむしろ楽であった。要心のために、誰か一人ぐらいずつ代る代る起きてはいたが、あとのものは相当の時間に各自めいめいの寝床へ引き取って差支さしつかえなかった。何かの拍子で眠れなかった時、病人の唸うなるような声を微かすかに聞いたと思い誤った私わたくしは、一遍ぺん半夜よなかに床を抜け出して、念のため父の枕元まくらもとまで行ってみた事があった。その夜よは母が起きている番に当っていた。しかしその母は父の横に肱ひじを曲げて枕としたなり寝入っていた。父も深い眠りの裏うちにそっと置かれた人のように静かにしていた。私は忍び足でまた自分の寝床へ帰った。
 私は兄といっしょの蚊帳かやの中に寝た。妹いもとの夫だけは、客扱いを受けているせいか、独り離れた座敷に入いって休んだ。
「関せきさんも気の毒だね。ああ幾日も引っ張られて帰れなくっちゃあ」
 関というのはその人の苗字みょうじであった。
「しかしそんな忙しい身体からだでもないんだから、ああして泊っていてくれるんでしょう。関さんよりも兄さんの方が困るでしょう、こう長くなっちゃ」
「困っても仕方がない。外ほかの事と違うからな」
 兄と床とこを並べて寝る私は、こんな寝物語をした。兄の頭にも私の胸にも、父はどうせ助からないという考えがあった。どうせ助からないものならばという考えもあった。我々は子として親の死ぬのを待っているようなものであった。しかし子としての我々はそれを言葉の上に表わすのを憚はばかった。そうしてお互いにお互いがどんな事を思っているかをよく理解し合っていた。
「お父さんは、まだ治る気でいるようだな」と兄が私にいった。
 実際兄のいう通りに見えるところもないではなかった。近所のものが見舞にくると、父は必ず会うといって承知しなかった。会えばきっと、私の卒業祝いに呼ぶ事ができなかったのを残念がった。その代り自分の病気が治ったらというような事も時々付け加えた。
「お前の卒業祝いは已やめになって結構だ。おれの時には弱ったからね」と兄は私の記憶を突ッついた。私はアルコールに煽あおられたその時の乱雑な有様を想おもい出して苦笑した。飲むものや食うものを強しいて廻まわる父の態度も、にがにがしく私の眼に映った。
 私たちはそれほど仲の好いい兄弟ではなかった。小ちさいうちは好よく喧嘩けんかをして、年の少ない私の方がいつでも泣かされた。学校へはいってからの専門の相違も、全く性格の相違から出ていた。大学にいる時分の私は、ことに先生に接触した私は、遠くから兄を眺ながめて、常に動物的だと思っていた。私は長く兄に会わなかったので、また懸け隔たった遠くにいたので、時からいっても距離からいっても、兄はいつでも私には近くなかったのである。それでも久しぶりにこう落ち合ってみると、兄弟の優やさしい心持がどこからか自然に湧わいて出た。場合が場合なのもその大きな源因げんいんになっていた。二人に共通な父、その父の死のうとしている枕元まくらもとで、兄と私は握手したのであった。
「お前これからどうする」と兄は聞いた。私はまた全く見当の違った質問を兄に掛けた。
「一体家うちの財産はどうなってるんだろう」
「おれは知らない。お父さんはまだ何ともいわないから。しかし財産っていったところで金としては高たかの知れたものだろう」
 母はまた母で先生の返事の来るのを苦にしていた。
「まだ手紙は来ないかい」と私を責めた。


十五


「先生先生というのは一体誰だれの事だい」と兄が聞いた。
「こないだ話したじゃないか」と私わたくしは答えた。私は自分で質問をしておきながら、すぐ他ひとの説明を忘れてしまう兄に対して不快の念を起した。
「聞いた事は聞いたけれども」
 兄は必竟ひっきょう聞いても解わからないというのであった。私から見ればなにも無理に先生を兄に理解してもらう必要はなかった。けれども腹は立った。また例の兄らしい所が出て来たと思った。
 先生先生と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。少なくとも大学の教授ぐらいだろうと推察していた。名もない人、何もしていない人、それがどこに価値をもっているだろう。兄の腹はこの点において、父と全く同じものであった。けれども父が何もできないから遊んでいるのだと速断するのに引きかえて、兄は何かやれる能力があるのに、ぶらぶらしているのは詰つまらん人間に限るといった風ふうの口吻こうふんを洩もらした。
「イゴイストはいけないね。何もしないで生きていようというのは横着な了簡りょうけんだからね。人は自分のもっている才能をできるだけ働かせなくっちゃ嘘うそだ」
 私は兄に向かって、自分の使っているイゴイストという言葉の意味がよく解わかるかと聞き返してやりたかった。
「それでもその人のお蔭かげで地位ができればまあ結構だ。お父とうさんも喜んでるようじゃないか」
 兄は後からこんな事をいった。先生から明瞭めいりょうな手紙の来ない以上、私はそう信ずる事もできず、またそう口に出す勇気もなかった。それを母の早呑はやのみ込こみでみんなにそう吹聴ふいちょうしてしまった今となってみると、私は急にそれを打ち消す訳に行かなくなった。私は母に催促されるまでもなく、先生の手紙を待ち受けた。そうしてその手紙に、どうかみんなの考えているような衣食の口の事が書いてあればいいがと念じた。私は死に瀕ひんしている父の手前、その父に幾分でも安心させてやりたいと祈りつつある母の手前、働かなければ人間でないようにいう兄の手前、その他た妹いもとの夫だの伯父おじだの叔母おばだのの手前、私のちっとも頓着とんじゃくしていない事に、神経を悩まさなければならなかった。
 父が変な黄色いものも嘔はいた時、私はかつて先生と奥さんから聞かされた危険を思い出した。「ああして長く寝ているんだから胃も悪くなるはずだね」といった母の顔を見て、何も知らないその人の前に涙ぐんだ。
 兄と私が茶の間で落ち合った時、兄は「聞いたか」といった。それは医者が帰り際に兄に向っていった事を聞いたかという意味であった。私には説明を待たないでもその意味がよく解っていた。
「お前ここへ帰って来て、宅うちの事を監理する気がないか」と兄が私を顧みた。私は何とも答えなかった。
「お母さん一人じゃ、どうする事もできないだろう」と兄がまたいった。兄は私を土の臭においを嗅かいで朽ちて行っても惜しくないように見ていた。
「本を読むだけなら、田舎いなかでも充分できるし、それに働く必要もなくなるし、ちょうど好いいだろう」
「兄さんが帰って来るのが順ですね」と私がいった。
「おれにそんな事ができるものか」と兄は一口ひとくちに斥しりぞけた。兄の腹の中には、世の中でこれから仕事をしようという気が充みち満みちていた。
「お前がいやなら、まあ伯父さんにでも世話を頼むんだが、それにしてもお母さんはどっちかで引き取らなくっちゃなるまい」
「お母さんがここを動くか動かないかがすでに大きな疑問ですよ」
 兄弟はまだ父の死なない前から、父の死んだ後あとについて、こんな風に語り合った。